ディーセント・ワーク

三度の飯より映画が好き。三度の飯を食える人権が好き。

2018年に観る「ズートピア」

2016年公開のディズニーアニメ映画「ズートピア」は、動物の世界を舞台に差別問題を扱った社会派ミステリーアクションだ。アカデミー賞を始め多くの賞を獲得し、各方面から高い評価を受けている。
アニメーションとしての技術的クオリティはもう、べらぼうに高い。考え抜かれたディテールひとつひとつの細やかな描写、豊かな色彩、適切で美しい照明、動物の描き分けを見ているだけでも、いちいち見事で圧倒されてしまう。

メタ的なギャグも多く、本作に繰り返し登場する「ずる賢いキツネという偏見」はまさにディズニー自身が作り上げてきたステレオタイプ*1、ストーリー的にも主人公が自分の差別意識と対峙するものになっている。

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本作が公開された2016年はアメリカ大統領選挙の年。オバマが引退し、トランプの勢いが伝えられていた頃だ。
そういう時代的な緊張感の中で、少なくとも私は"長年に渡る差別を乗り越え今は皆が平等に暮らす夢の街…のはずが本当は差別や偏見が根強く残っている"ズートピアの世界を、初の黒人大統領を生み出しながらもトランプが大成しつつあるアメリカの物語として鑑賞した。

で、公開から2年後の今、「ズートピア」がTV放送されたことでTwitterでも話題になっていたので、改めて見直してみた。
当時から、主にアメリカの人種差別を描いた作品なのに警官を憧れの職業に設定するのはどうなんだ?とか、あんな監視カメラの張り巡らされた社会を全肯定するのやばくない?と思う所はあったけど、今回は当時気にならなかったけど今見るとおかしいと感じる部分が結構目についてしまった。しかも根本的な部分で。

マイノリティを架空の生物や動物に置き換えて差別問題を描く手法はSF/ファンタジーではよく見られ、1960年代から連載されたアメコミ「X-メン」や、「猿の惑星」旧シリーズ3作目以降、近年なら「第9地区」なんかも同じ系統に入る。
ただ、こうした作品と「ズートピア」には、実はひとつ決定的な違いがあると思う。それは、描かれている属性が現実世界の何のメタファーなのか、かなり混沌としていることだ。

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本作には「肉食獣/草食獣」「キツネ」「小さい動物」という属性が登場する。
粗暴という偏見から差別される肉食獣=黒人、種的マジョリティの草食動物=白人、有色人種の中でもとりわけ差別されている人種(例えば中東系)=キツネに置き換えるとそんなに矛盾はない。
でも、真っ白な草食動物のベルウェザー副市長が「アフロヘアを勝手に触る」という典型的な黒人差別*2を受ける場面もあるし、女性のメタファーとして出てくる「小さな動物」は比喩としてかなり不徹底で、作中に出てくるもっとも「小さな動物」は非常に男性的なマフィアのボスだったりする。
この不徹底さが、全体的に差別/被差別の権力関係を曖昧にしていると思った。そして、もしかするとそれは意図的なのかも知れない。

草食動物が圧倒的なマジョリティであることは後半まであまり示されず、一方でジュディがウサギ=女性として差別される描写は連続する。つまり観客は、後半までジュディのマジョリティ性にほとんど気づかないままお話を見て行くことになる。
だからこそ、大失敗をやらかして初めて「あ、私ってマジョリティだったんだ!」とジュディ自身も気付く構造になっていて、効果としては成功していると思うし、動物キャラクターだからこそできる芸当だ(人間の白人/黒人が演じていたら、観客がこのタイミングまで彼女のマジョリティ性を意識しないことは難しい)。
でも、それって少し、不誠実じゃないかなぁ。
 

(以下、ネタバレしています)

 

 こうした属性の矛盾、混乱の詰め合わせみたいなキャラクターが黒幕のベルウェザー副市長だと思う。クライマックスの場面で彼女は自分の動機をこんな風に話す。

私たち仲間でしょ、ジュディ。見下され、過小評価されてきた。うんざりでしょ?
肉食動物は強くて、声も大きい。でも数は10対1で草食が有利。
想像して。全住民の90%が団結し、共通の敵に立ち向かえば、誰にも止められない。

ジュディやベルウェザーが受けてきたのは明らかに女性差別で、前半はそのことに対する怒りを語っている。ところが「でも数は10対1で草食が有利」の部分からは、いきなり人種比率の話題に変わってしまう。つまり「もう女性差別にはうんざりだから、有色人種を排除しましょう」と言ってるわけで、お前は何を言ってるんだ?
性差別の問題なのに人種の特性だと思い込んでいる"勘違いヴィラン"として描かれているならわかるけど、別にそういう描写も無く、単にこの作品では複数の差別が一緒くたにして混同されているとしか思えない。

そもそもズートピアの世界って、性別は普通に存在してるじゃん?
だったらジュディはやっぱり、かわいいねとセクハラされることにも、駐車違反係にさせられたことにも、「ウサギをバカにするな!」ではなく、「女をバカにするな!」と言えば良かったんじゃないだろうか。
「女は人口の半分を占めるマイノリティ」という言い方もあるように、性差別は人種/民族/障害者などの「少数者」に向けられる差別とはまた違う性質を持っている。だから、女性差別のメタファーを特定の種類でやること自体が、性差別の本質から外れた手法なのかも知れない。
猿を黒人のメタファーにして人種問題を告発した「猿の惑星」旧シリーズにも女性差別の描写が出てくるけど、女性差別についてはメタファーではなく直接的に語られている。 

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「新・猿の惑星」より

今見ても「ズートピア」の技術的なすごさには舌を巻くしかないし、ユーモアのセンス、サスペンス部分の展開、個々の差別描写は本当によく出来ていると思う。ただ全体として見たときに、差別をさらーっと表面だけなぞって一括りにしている印象は強く残った。
差別はそれぞれ固有の歴史があり、特性がある。もちろん様々な差別に共通する普遍的な部分もあるけど、差別が権力関係に基づく構造の問題である以上、その個別性を軽視して生まれるのは雑な反差別じゃないかと、そんなことを考えた2018年の「ズートピア」だった。