ディーセント・ワーク

三度の飯より映画が好き。三度の飯を食える人権が好き。

性暴力をぶっ飛ばせ! 映画「お嬢さん」

地元で上映されなかったために長いこと鑑賞を逃していた韓国映画「お嬢さん」をようやく見た。
ojosan.jp

1930年代、日本統治下の韓国。スラム街で育った天涯孤独の少女スッキは、詐欺仲間からある計画を持ち掛けられる。莫大な財産の相続権を持つ令嬢を誘惑し、財産を奪い取って精神病院へ送り込もうというものだった。
詐欺師の誘惑を手助けするため、人里離れた屋敷に幽閉された秀子のもとでメイドとして暮らし始めるスッキだったが、二人は次第に心を惹かれていき‥‥。

 

以下、一番のどんでん返しには触れてないつもりだけど、結末に触れるネタバレをしてます。

 

幼くして伯父の上月に預けられた秀子は幼少期から性虐待を受けていて、そこから逃れようと四苦八苦する話なんだけど、上月は劇中で秀子の体に性的な意味で触れる場面はほとんどないし、ご丁寧に二人が肉体関係を持っていないと示唆する台詞まで出てくる。
上月は、秀子を性的に消費しようとする男たちの前に晒し、性的に誘惑するよう躾け、性的な視線を浴びることを強要する。指一本ふれなくても、上着一つ脱がせなくても、そうした行為がおぞましい性暴力であることが見事に描かれている。

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秀子は物心ついた頃から幽閉され虐待を受けてきたために、抑圧を抑圧と認識することさえ出来なくなっている部分がある。その抑圧を素直に告発し、秀子の心を開放していくのがスッキだ。
例えばこんな場面がある。生まれて初めて高級下着を身に着けたスッキは、その締め付けの強さに驚き、お嬢様はいつもこんなものを付けているんですかと尋ねる。秀子は心底不思議そうに「これがきついの?」と、尋ねるでもなく呟き、そのまま全身を使ってスッキの身に着けたコルセットを締め上げる。

きついコルセットに象徴されるようなすさまじい抑圧が日常である秀子にとって、ブラジャーの苦しさなど感じられないほど当たり前のものになっている。彼女は自分を縛りつける暴力に鈍感になり、魂を殺し、感覚を殺すことでしか生きてこられなかった女性なのだ。
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強引に迫ってくる藤原伯爵(詐欺師)に困惑した秀子は、スッキにこう尋ねる。
「教えて、男は何を求めているの?」
伯爵と秀子の関係には実はからくりがあることが後に明かされるのだけど、それを考慮しても、"自分がどうしたいか"を殺し、常に"どうすれば男の暴力を避けられるか"に注力せざるを得なかったであろう秀子の人生を思うと、この言葉は偽らざる本心だったのではないだろうか。

面白いのは、この問いへのスッキの回答から始まる"救い"の場面が、非常に幸福感溢れる、何ならちょっとユーモアすら含んだエロティック展開であること。
フィクションに登場する性暴力被害者は、被害経験から性そのものに嫌悪や恐怖を持っていたり、逆に自傷行為としてやたらセックスしまくったりすることが多い。
実際、被害経験から似たような状態になる人はいるし、それは当然、全く責められるようなことではない。けれど、性暴力の被害に遭ったからセックスを楽しめなくて当然というのもまた抑圧であり被害の無効化だ。
(蛇足だけど、そもそも性を嫌悪しようとホンポーに謳歌しようと個人の自由で、それによって優劣をつけられたり人間性を評価されること自体がもうめちゃくちゃにおかしい。)

本作は、性暴力に怯えて暮らすことと、合意に基づくセックスを謳歌することが両立し得ると描いていて「レイプされて傷ついたとか言うけど、あいつすげえセックス好きじゃん?」みたいな、セックスとレイプの区別がついていない考え方を明確に否定するものになっている。

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スッキと出会う前の秀子は、上月の暴力から逃れたいと願いながらも、まやかしの"共闘"によって実際は別の男の手のひらで踊らされている。しかし、図らずもスッキとの間に「取るか取られるか」以外の関係が生まれたことで、男による支配そのものから逃れようと模索を始める。
秀子をいたぶり続けてきた暴力装置をスッキが手当たり次第に破壊するとき、彼女はようやく、自分が解放されることを実感したんじゃないだろうか。(私はあのシーンでひたすら号泣してしまった)

男たちが最後の最後まで支配装置としての性(チンコ)に固執し続ける中、ついに、まったく対等な存在同士として繋がる女と女。
性暴力を蹴散らし、幸福な性を獲得するハッピーエンドは、美しく官能的であると同時に、支配/被支配からなる関係性を笑い飛ばす爽快なものだった。