ディーセント・ワーク

三度の飯より映画が好き。三度の飯を食える人権が好き。

オギーのような少年と、謝れなかった私。 「ワンダー 君は太陽」

映画「ワンダー 君は太陽」を見てきた。
wonder-movie.jp


私は幼いころから、いわゆる病気や障害を持った人の出てくるお涙チョーダイ物が大嫌いだ。嫌いを通り越して憎んでいると言ってもいい。理由は簡単で、私自身が生まれつきの障害(心疾患)を持っているから。
物語に登場する、どこまでも優しく寛容で天使のような障害者は「ビョーキなんだからこのくらい頑張らなきゃダメ」と言われているようで、私にとって重荷であり恐怖だった。

なので当然、本作の、感動ポルノでござーい!な予告には辟易したし、一ミリも鑑賞意欲がわかなかった。「監督:スティーヴン・チョボスキー」の文字だけが私を映画館へ向かわせた。 

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生まれつきの障害(劇中で病名は出てこないが、公式設定としてはトリーチャーコリンズ症候群)で変形した顔を持つオギーが、10歳にして初めて学校へ通うことになった1年間を描いた作品。
とはいえ、実際見てみると、オギーを中心としながらも姉のヴィア、友達のジャックなど様々な人物の視点から出来事を物語る作りになっていて、一種の群像劇と言ってよい。
個々のキャラクターの描き方が丁寧で、作り手の視線、とりわけ子どもたちへの視線がとにかくやさしく真摯。オギーも決して品行方正な天使ではなく、怒りも憤りも表明するし、生意気だし、きちんと一人の子ども(人間)として描かれている。

学校に通い始めてしばらくした頃、今日もいじめられて帰ってくるんじゃないかと身構えている母のもとに、当然みたいな顔をして友達と一緒に現れるオギー。その姿にあふれる涙をこらえて、動揺を隠そうと取り繕う母。友達が出来てはしゃぐなんてカッコ悪いとばかりに涼しい顔をしているオギー。
そういう、地味ながら胸を打つシーンの心理描写一つ一つが繊細になされている。私はもう、開始3分あたりの出産シーンで既に号泣し、そこから終わりまで瞳の乾く暇もないような有様だった。
見終わって印象に残るのは、"あんなにか弱いはずなのに、あまりにも大きな障壁を、時に驚くほど軽やかに乗り越える子どもという生き物"だったり、"あんなに長くもどかしいのに、気づけば二度と戻れない一瞬の輝きである子ども時代(青春時代)"だったりして、障害をテーマにした作品というより大変優れたジュブナイルだと感じた。

ただ、鑑賞前から懸念材料の一つだった、健常な子に特殊メイクをして主人公を演じさせる手法は、やはり作品的にも倫理的にもよくないと私は思う。オギーを演じたジェイコブ・トレンブレイ(「ルーム」のあの子)は名演だったけど、それでも見ている間中かなりノイズになった。
障害者の役に関わらず、非当事者がマイノリティを演じることについては最近批判が広がっていて、ゲイのマットボマーがトランスジェンダー女性を演じる「Anything」もアメリカでは大きな批判を受けた。
マット・ボマーがトランス女性役の映画『Anything(原題)』のトレイラーが公開される ジェン・リチャーズから批判も - 石壁に百合の花咲く
そうした中、当事者の活躍の場は広がってもいて、「ワンダーストラック」「クワイエット・プレイス」ではろう者の役を実際にろう者である子役のミリセント・シモンズが演じている。

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そんなこんなで、「ワンダー 君は太陽」は全体として丁寧に作られた優れた作品だとは思った。好き嫌いで言えば好きだ。好きだけど、この作品が何の批判も受けずに好評を得てはいけないとも思った。
原作は、街で顔に障害のある子と遭遇した我が子が驚いて声を上げてしまい、適切な対応を出来なかった後悔の念から産まれたものだそうだ。だからなるほど、この作品は「こうあるべき世界」を描いた寓話と言ってよい。
この寓話に、私は賛同できる部分が多い。でも、それはあくまでも寓話で、残念ながら現時点では「現実の世界」とかけ離れたものであることを、絶対に忘れてはいけない。この先は個人的な昔話になってしまうけど、ぜひ読んでほしいと思う。

私が丁度オギーくらいの年齢だった頃、同じクラスに「見た目が人と違う」S君という少年が転校してきた。
S君は何かしらの重い皮膚疾患だった。皮膚は常に乾燥しきって全身ウロコみたいで、しょっちゅう皮脂やかさぶたが剥がれ落ち、みんなが彼を無視した。誰も彼と話さなかったし、誰も彼に触れなかったし、ことあるごとに「キモイ」「汚い」と陰口を言った。まさにオギーがそうされたように。
月並みな言葉を使えば、"子どもは残酷"ってやつだ。そして私も、残酷な子どもの1人だった。陰口を言ったりはしなかったけど、無視してたし、いじめを止めることもしなかった。
悪いことなのは分かっていた。すごく酷いことをしてるな、と、ふいに実感して苦しくなることもあった。あの肌じゃいつも痒くて痛くてつらいんじゃないかと想像もした。でも、手を差し出す勇気はなかった。

丁度1年間、S君には、オギーが学校で経験したような良いことは、何一つ起こらなかった。
毎日ただただ、いじめられた。先生は守ってくれなかった。グループ分けではみんなが彼を「譲り」あった。私も、誰も、彼の隣に座らなかった。1年間ずっと。
そして、S君はそんな1年間を、もう何度も経験してきたはずだ。

まもなく学年を終えてクラス替えという時期になって、私は、何故それを急に決意したか覚えていないけど、彼の家へ謝りに行った。どうやってアポを取って、どうやって彼の家を知ったのかも覚えていない。
ともかく、当時仲の良かった友達と一緒にS君の家を訪れた。S君の家は狭い公営団地だった。お母さんが出て来て、驚いた様子で、嬉しい動揺を抑えているのが子どもの私にもわかった。
2時間くらいだったか。私たちは彼の家で遊んだ。みんなではしゃいで、とても楽しかった。はしゃぎながら、謝らなくちゃいけないとずっと思っていた。そのために来たんじゃないかと。
でも、私は結局、最後まで謝ることが出来なかった。つくづくプライドの高い、勇気のない、クソガキだった。オギーのような子が出会う人間は、現実にはほとんど、クソ野郎ばっかりだ。

「ワンダー」の終盤、いじめグループの子とオギーが和解するシーンがある。
いじめっ子が謝るでもなく、ただ、決して触れることのなかった彼に触れることで、二人は和解する。まるで、最後まで謝れなかった私が、S君と一緒に遊ぶことで和解したと感じたあの日みたいに。

でも、私はいじめっ子に言いたい。
「悪いことをしたなら、せめてきちんと謝れ」と。
そして、オギーに言いたい。
「謝られたって、一生許さない権利も君にはある」と。