ディーセント・ワーク

田舎に暮らすノンバイナリーなフェミニスト。映画好き。語学を勉強する人。ね子だくさん。

映画『 片袖の魚』感想

映画『片袖の魚』を見た。
34分の短編作品である本作は、トランス女性のキャラクターにトランス当事者をキャスティングしたこと、また作品のクオリティの高さによって公開当時から様々なところで好評を聞いて来た作品だ。
残念ながら地方上映は貴重で見る機会に恵まれなかったのだが、今回、国際トランスジェンダー可視化の日である3月31日に合わせてネットで無料配信されたため、ようやく念願かなって見ることができた。


以下、ネタバレを含みます。

 


トランスジェンダーを取り巻く息苦しい日常をつぶさに見つめ、その重さをきちんと重さとして描きながらも、決して絶望一色ではない、最後には少し体が軽くなるような映画だ。
出てくる人は誰も、ヒカリを面と向かって罵倒したり拒絶したりしない。しかし、差別する人は山ほど出てくる。その人たちの"偏見がないフリ"あるいは"差別している自覚のなさ"も含めて、非常にリアルな、おそらく当事者はいろいろな記憶が蘇ってくるようなシーンが連続する。

もっとも大きなエピソードは、仕事でひさびさに地元に行くことになったヒカリが、高校時代に思いを寄せていた同級生・久田と再開する展開である。
久しぶりに会おうよと言いたくて、ヒカリは勇気を振り絞って電話をかける。しかし、相手は自分がトランスジェンダーであること、トランジションしていることを知っているかどうかも分からない。ヒカリはすっと喉に手を当てて、声を微妙に低く、男の声にと変える。これは相手が動揺しないようにでもあるし、あからさまな拒絶が返ってくるリスクを少しでも減らしたいからかもしれない。もし相手が自分の"変化"をまったく知らなければ、ただそのまま電話を切ってしまえるように。
ところが意外なことに、久田はヒカリが"変わった"ことを知った上で飲みに行こうと自分から誘ってくる。ヒカリは嬉しさを隠せない。しかし、観客はこの流れに若干の不安を覚えるだろう。学生時代とびきり親しかったわけでもなさそうなのに、なぜ久田はこんなに屈託なく誘ってくるのか? そこにあるのは本当にヒカリエの好意なのか? あるいはもっと別の"好奇心"ではないのか。

再開当日。仕事で散々な目にあったヒカリは、それでも気を取り直して勝負服の赤いワンピースに着替える。
ここで思い出したのは、今年公開されたゲイ映画『エゴイスト』との似ているようで微妙に違う"装い"のあり方だ。『エゴイスト』の主人公は、自分を排斥してきた地元の田舎町に帰るとき、およそ地方では着ている人がいない(都会でもごくわずかのリッチ層しか身に着けないような)ブランド物に身を固める。そうした装いが、この町から自分を守ってくれると彼はモノローグで語る。つまり彼にとってブランド服は戦闘服である。
ヒカリにとって勝負服のワンピースは自分を表現する、自分にマッチした服ではある。しかし、一方で"女らしい"服装は彼女を危険にさらしてしまう可能性をはらんでいる。パスできなかった場合、その服装が即カミングアウトの機能を果たし、逃げ場を奪ってしまうからだ。

久田と約束した店に行くと、どうも様子がおかしい。案内された部屋の前には大量の靴。なんと久田はヒカリに何も告げないまま、勝手に他の同級生を大勢呼んでいたのである。
私はこのシーンを見た瞬間、思わず汚い言葉が口から出てしまった。久田が再開を申し出た理由が好意ではなく興味本位だったばかりか、本人の了解もなく見世物にしていいと思っていることが判明するからだ。
もちろん久田にそんな自覚はないだろう。男子校の同級生たちは次々に無神経極まりない偏見と差別にまみれた問いを繰り出すが、それだって「俺たちはコウキと軽口を叩ける間柄である」ことを確認したいからである。
彼らは信じたいのだ。コウキが"女"になっても、俺たちは男友達のままでいられると。だから、いくら口では「めっちゃ女じゃん!」と言っていても、コウキが女性であり、ヒカリであり、もはやホモソーシャルなコミュニティの外にいることを決して認めない。
もっと言えば怖いのかも知れない。ともに学生時代を過ごした男友達が実は女性であったこと。俺たちのありふれた貴重な青春が、ヒカリにとっては殺してしまいたいような、あるいは死んでいたような絶望的な過去であること。俺たちの思い出のサッカーボールが、ヒカリにとっては目にした瞬間身のすくむようなものであること。その絶望に、おそらくは自分たちが加担してきたことを。
だから、「いつからそうなの?」という問いは、もしかしたら「君たちと居た時はそうじゃなかった」という答えをどこかで期待していたのかもしれない。でもヒカリはこう答える。「うーん。ずっとかな。」

最後の最後まで"コウキ"との再会をいい話に仕立てようとする久田をはっきりと拒絶して、東京へ戻ったヒカリは、同じくトランス女性である友人・千秋の店を訪れる。
多くの性的マイノリティがそうであるように、ヒカリに安心して帰れる地元はもうない。しかし彼女は、安心できる新たな場所を持っている。だから安全でない場所も、きっと歩いていけるだろう。そのことが私を少しほっとさせて、映画は終わる。

 

テルグ語学習 開始3カ月の進捗

あけましておめでとうございます。
そして、M.M.キーラヴァーニ先生、RRRチームの皆さん、ゴールデングローブ賞獲得おめでとうございます!!!!! ついに世界がナートゥをご存じになる時が来ましたね。めでたい!!!

さて、Twitterからブログに移行するぞと思いつつ、なかなかブログを書くだけの気力が無くてマストドンに移行気味な今日この頃です。

ちきささ🔥🤝🌊 (@c_ssk@fedibird.com) - Fedibird

↑ブログに載せるほどじゃないけどTwitterに収まらない程度長文などはこっちでやってます。

 

昨年11月13日にテルグ語の勉強を始めて3カ月がたちました👏
最初は習得できる気がしなかった文字も読み書きできるようになり、日本語でテルグ語を学ぶ人たちの聖典『基礎テルグ語』も無事に入手。

いやしかし、覚悟はしてたけど、結構な難易度!
①日本語と違って単数と複数の区別が厳格
②しかも複数形への変化が複雑
③発音変化が複雑
ジェンダーの区別(厳密にはジェンダーだけではないのだが)がある
などが現状で難しく感じている点かな…。つまり大体すべてですね(笑)

まだ3か月なので当たり前だけど、あんまり手ごたえはない。でも先週から急に例文を作って文法復習ができる状態になりました。なので、これから書いて書いて書きまくる期が来るのでは!?と思っています。

テルグ語の単語ノート作成風景

勉強方法としては『基礎テルグ語』を1週間かけて1章ずつやって、行き詰まりを感じてきたら一週間は復習に充てるスタイル。今のところ文法全20章のうち3章まで来てます。なんとか山のふもとまで到着して登り始めたくらいでしょうか。
とりあえず一年かけて『基礎テルグ語』を最後までじっくりやるのが今年の大きな目標です。

相変わらず世の中ままならぬことばかりですが、今年も私は私の人生を生きていこうと思います。みなさんも出来る限り良い一年を生き延びられますように。


そうだね、言葉を大切にしてほしいよ。

 韓国語を勉強し始めてもうすぐ2年半になる。元々は韓国映画が好きで、コロナで家にいる時間が長くなった時期に暇つぶしくらいの気持ちで始めた。ところがやってみると面白くて仕方ない。「字幕なしで映画を見る」にはまだまだ遠いけど、聞き取れる部分が増えていくのは嬉しいものだ。
 こんな風に頑張っている毎日の中で、例えば私が大ファンである脚本家のキム・ウニ*1が「韓国人というか、韓国語のわかる人に見てほしい」なんて言ったらどう思うだろうか。たぶん落ち込みすぎてその日は仕事にならない。腹が立ちすぎて「たいしてわかんないのに見てスイマセンねえ!!!」式の呪詛を20連続ツイートくらいして、その作家の作品は二度と見ないだろう。
 もちろんキムウニはそんなこと言わないけど、日本にはそんなことを言った脚本家がいるのだ。

www.sponichi.co.jp

 海外でも人気を得ているドラマ『silent』の脚本を担当する脚本家、生方(うぶかた)美久さんの発言だ。
 ざっくり紹介すると、生方さんは「日本語が好きだから」韓国ドラマなど外国の作品にはあまりハマらないそうで、日本語でしか表現できない独特の言葉やニュアンスが好きであり、それらは「日本語じゃないと意味がない」ものであり、「もし海外で翻訳されて出たら海外の人には伝わらないんだっていう悲しさがある」そうだ。

 最初に言っておくけど、作家が何を重視し、どのような人に向けて何を作ろうと、差別やデマでない限りは自由だ。日本語独特の機微を重視して、それが分かる人だけに向けて書きたいと思うのは別に悪ではない。
 そりゃ、日本語話者ではないファンは大いに傷つき怒るだろうし、翻訳家を始め、作品を輸出するために努力している制作部門からすればいい迷惑だけど、まあ別に、日本語のわかるコミュニティ内だけで十分だもん海外に興味ないもんと思うのは個人の自由である。
  ただ言っておきたいのは、他の言語では表現できないものなんて、どの言語にもあるってこと。外国語どころか方言にだってある。たいていの地方出身者が方言のニュアンスを「標準語」で表現することの難しさを知っているだろう。だから生方さんが海外の作品にあまり夢中になれないのは、単に彼女が日本語以外はあまり分からない人だからであって、日本語が突出して豊かな言語だからではない。
 いやまあ、それくらいはさすがに分かっていると思うんですよ。だってもう2022年だし。もうすぐ2023年だし。これだけ手軽に多くの言語に接することができる時代に、プロの物書き、それも言葉の重要性を説く作家が、日本語は他の言語に比べて極めて優れた言語である!なんて思ってるはずがない。さすがに、それはないでしょ。いくらなんでも。

 たださ、それならどうして、「手話」という、日本語とは違う言語を重要なモチーフにした作品を手掛けたんだろう。
 だって、まず生方さんは、手話のセリフ部分もおそらく日本語で書いてますよね。『silent』の作中で使われている手話は、日本語の文法に乗っ取った日本語対応手話ではなく、独自の文法や表現を持つ日本手話なのだそうだ。じゃあもう、台本が演じられる時点で日本語から日本手話への"翻訳"が必須なわけじゃないですか。そこはいいの?
 新人作家の権限なんてたかが知れているから、日本手話になっているのは作家の選択ではないかもしれない。でも、いずれにしても、自分の書いたセリフが自分の分からない言語で表現されることに対して、なにより、自分が分からない言語のセリフを書くことに対して、迷いが生じなかったんだろうか。手話なんて全然分からない私が、手話のセリフを書いてもいいのかな? 手話の持つニュアンスや豊かさを私に表現できるだろうか?って、思わなかったんだろうか。


 日本手話を第一言語とするろう者の中には、日本語で書かれた文章や、日本語の文字を手指で表現する指文字を十分に理解できない人もいる。それは手話教育の歴史の中で、聴者がろう者の第一言語(手話)の獲得を阻んできた歴史が大きく関係している。日本を含むあらゆる国で、聴者によって手話が抑圧され、時には禁止されてきた歴史がある。

 そういった背景を持つ言語、人々、文化を描く作品でヒットを飛ばした作家が「日本語のわかる人に見てほしい」と言い放つことの暴力性に気付いてほしい。
 日本で暮らすろう者の多くは、「日本語がわからない」ために今も深刻な差別を受けている。「日本語がわからない」ために、日本のコンテンツからも取り残されがちだし、「日本語がわからない」ために病院へ行くのも大変だし、「日本語がわからない」ために非常時に必要な情報が手に入らなかったりするし、そのせいで命を落としたりする。そういう人の話を「日本語のわかる人」に向けて書くことの残酷さを、考えてほしい。
 言葉を大切にしてほしいよ。”言葉を大事にする”ということが、自分のわかる言葉に閉じこもることではなく、あらゆる人の言葉を尊重することであるのなら。
 

 

 

*1:ミステリードラマ『シグナル』やNetflixのゾンビ時代劇『キングダム』でヒットを飛ばした韓国の著名な脚本家

テルグ語目指して1万里『文字を覚える その1』

 まだ4Rしかしてないのに県内の『RRR』上映が終わってしまう田舎の悲しみ。やり場のない情熱をぶつけるためにテルグ語学習を始めた人の学習記録です。

 

 『RRR』に圧倒されて、テルグ語勉強した~い!と思っても、日本語で書かれた教材がビックリするほど限られるテルグ語。文法の解説書は山田桂子先生の『基礎テルグ語』1冊のみ。日→テ/テ→日の辞書に至ってはこの世に存在しない。
 今や選びきれないほど教材が豊富な韓国語・朝鮮語界でぬくぬくと(?)学んできた私が、先の見えないテルグ語の道をどこまで進んでいけるのか。当てもなく歩き始めたのは一カ月ほど前のことでした。

 まずは文字やな。とWikipediaさんにお伺いしたものの、え、なにこ、、

Wikipediaに掲載されているテルグ文字の例

 いかにも書きずらそう。バランス取るの難しそう。まして日本語すら悪筆な私がよ。となったのは言うまでもありません。
 とはいえ、Wikipediaのテルグ文字項目はかなり充実していて、私はwikiとアプリで一通り文字の読み書きをできるようになりました。ただ、wikiには書き順が載っていないんですよね。形が複雑なテルグ文字は、書く上でも、似た文字を見分ける上でも、書き順がとても重要なヒント。
 例えば(La) は一見するとどの線がどう繋がっているのかさえ分からず、到底書ける気がしません。でも、書き順を見ると、ちょっと書ける気がしてきますね!?

テルグ文字Laの書き順説明イラスト

 「tekugu alphabet」で検索すると、テルグ文字を学ぶためのアプリや動画が結構出てきます。私が愛用していたのはこのふたつ。

play.google.com

play.google.com


 ひとつめの"Telugu Alphabets Writing"はアニメで分かりやすく書き順を説明してくれます。次の"Write Telugu Alphabets"も同じく書く練習用アプリですが、3つ出てくるボタンのうち一番下にある「Composite Letters」を押すと、一般的に使われる母音と子音の組み合わせをすべて音声付きで確認できます。私は最初の1週間くらいかけてこれを地道に全部書き写しました。

 テルグ文字は子音+母音で一文字になる作りで、その点はハングルと同じ。私が「できるかも?」と思った最大の理由はこれでした。
 が! 日本語と同じく有声音と無声音(カとガ)の区別がある上、日本語には無い有気音(息が沢山出る発音)があり、そのかけ合わせまであるし、それぞれに文字が割り当てられているので種類がすごく多く感じられます。
 日本語だと「は」に「゛」をつけるだけで「ば」、「゜」をつければ「ぱ」ですよね。でもテルグ文字だと「హ(Ha)」「 బ(Ba)」「 ప(Pa)」はそれぞれまったく違う文字なわけです。しかも前述した無気音/有気音も掛け算すると、いやー多い。
 こんなに覚えきれるのか?と不安になりますよね。なりました。でも、そんなときは「漢字より全然少ない」という事実に立ち返ってみましょう。そう。ひらがな、カタカナ、そして無限の漢字をそれなりに使っている日本語話者からすれば、テルグ文字など朝飯前です(やや嘘)。

 聞いたり話したりしたいだけで、読み書きはできなくていいよ~って人もいると思うのですが、人間は基本的に、知らない発音を知っている発音に寄せて理解してしまうんですよね。よく日本人は英語のLとRの区別が苦手だと言われるけど、あれもR音が無いからみんなラ行だと認識しちゃうわけで。音を正確に聞く・話すためにも文字は大切だと思います。
 しかもテルグ語、アルファベット表記にするとT音が4種類、D音が4種とかなので、目(文字)と耳(音)で覚えないと、どれのなにがなに???ってなるでしょうよ。
 ていうか、推しの名前とか書けるようになりたいじゃん?(真顔)
 そんなわけで、まずは文字の旅から歩き始めたのでした。

 

IMAXのない町で映画を見ながら暮らすこと

 これって世に聞くIMAXなら、もっとイイ感じに見えるのかなぁ。田舎のシネコンの小さなスクリーンで『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』の地底シーンを見ながら、ふとそんな雑念が頭をよぎる。東京へ映画を見に行くことが叶わなくなって、思えばもう3年が経つ。
 あまり"発展"していない地方に住む私にとって、映画を見るということは元々、都会地への嫉妬と無縁でいられない行為だ。ミニシアターしか上映しないような作品も、極音・爆音上映も、コスプレした人がいる賑やかな応援上映も、私が大好きな文化の、私が触れることの難しい一部である。
 年に何度か東京へ"遠征"することで多少なりともギャップを埋めていた(特にミニシアター系の作品をカバーしていた)生活がままならなくなって、疎外感とでもいうべき感情に改めて向かい合うことが増えた。私の愛する文化は、しかし田舎で暮らす私にあまり親切にしてくれない。上映方式が発展する中でその傾向は強くなっているようにも感じられる。きっと、多くの聴こえない・聴こえにくい映画好き、見えない・見えにくい映画好きは、もっともっと大きな疎外感をずっと感じ続けているだろうとも想像する。

 映画を見るってどういうことなんだろうか。例えばファスト映画のように情報処理として映画を見ることは、善悪以前に私にとっては何の楽しさもない意味不明な行為だ。そんなことならいっそ見ないほうがましだとすら思う。だからって絶対にIMAX極音環境で見たい!とも別に思わない。
 映画の"原風景"みたいなものをイメージするとき、私にとってそれは、よくわからない乾いた荒野に安っぽいスクリーンとスピーカーが置かれ、上映の質もくそもない場所に、それでも映画を見ようと地元の人々が集まっている光景だ。乾いた生活の中の、水道水か井戸水か。どうやら私にって映画というのはそういうものであるらしい。
 『RRR』の上映を早々に終えてしまった田舎町で、今日も私は生きている。