ディーセント・ワーク

三度の飯より映画が好き。三度の飯を食える人権が好き。

これぞファミリー・ムービー!「アントマン&ワスプ」

風邪が長引いて寝込んでたため、この映画見たのいつだよって感じのレビューですが、めげずにやっていきましょう。(?)

marvel.disney.co.jp
科学をあれこれした特性スーツで自在に大きさを変えられる「身長1.5センチの最強ヒーロー」第2作。
かつて夫・ピムとともにヒーローとして活躍しながらも、ソ連の核ミサイルを停止させるために"量子の世界"へと姿を消したジャネット。そんなジャネットを生還させようと、夫のピム、娘のホープ、そしてアントマンことスコットが奔走する。
しかしその前には、あらゆる物をすり抜けてしまう"ゴースト"を始め様々な敵が現れて…?!

f:id:chiki_sasa:20180912153205j:plain


DC映画の「ダークでシリアス」な路線と対照的に、明るいエンタテイメントを基調としたことで人気と評価を得てきたマーベル映画(以下MCU)。とはいえシリーズが長期化するに伴ってストーリーが深刻化していくのは避けがたく、ヘビーな展開が多くなりがちな中で原点回帰したともいえるのが本シリーズだ。
全観客が呆然となった「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」とほぼ同じ時間軸の話でありながら、作品のタッチは軽妙で、世界観はあくまでも地味で地道。アベンジャーズたちが世界を救うために大暴れしていた最中、スコットはFBIの監視を受けながら自宅で日常を送り、一緒に外出できる日を夢見ながら娘と遊び、娘を喜ばせようとマジックの練習に励んでいた。
こういうミニマムな世界観は戦いが始まってからも変わらない。スコットが絶対教えちゃいけない場所を友達に教えてしまうくだりがあるのだけど、それも前科者である友達の社会復帰を心配してのこと。とかく規模と破壊力がエスカレートしがちなヒーローものというジャンルにあって、フツーの経済活動や家族関係を徹底的に尊重しているのが「アントマン」の良さだと思う。

全体としては、いくらなんでも敵が多すぎ&場所が分かれ過ぎでクライマックスが散漫とか、能力の使い道が巨大化方向に走っていてアントマン特有のアクションシーンが少ないとか、前作ほどアリと手を携えて戦うシーンが無くてガッカリとかの不満点もあるものの、家族で見るファミリー・ムービーとしては及第点かな。

ファミリームービーと言えば、MCU作品の中でもちょっと特異な、「アントマン」世界の家族観について触れておきたい。
MCUヒーローは父との関係にトラウマを抱えているキャラクターが非常に多く、主人公だけでもアイアンマン、ソー、ブラックパンサー、スターロードが挙げられるし、父の決断やヤラカシが物語の契機となっていることも多い。そして、MCU世界全体のラスボスとして出てきたのは、宇宙最強の虐待パパであるサノスだ。
一方で母親はいずれの作品でも影が薄く、出てこないか、出て来てもほとんど描写されないか、死ぬことでドラマに起伏を持たせる要因でしかない。
そんな中、「アントマン」の主人公は自分自身が父親で、ダメな主人公が良き父親になろうとする話で、ヒロイン家族が抱えているトラウマは母(妻)の喪失。この骨格の時点で他のMCU作品とは家族観が大きく異なっている。

アントマン」一作目で、作品そのものとはちょっと違う部分で注目されたのが、ステップファミリーの描き方だった。
従来フィクションの世界では、主人公の元妻なり恋人に"新しい男"ができる場合、そいつは暴力男だったり嫌味だったり陰で子どもをいじめてたり、要はロクデナシと相場が決まっていた。シングルマザーも例外ではなく、とにかく"男と別れるような女"はロクデナシに捕まる愚かな/あるいは弱い女性として描かれることがあまりにも多い。
しかし、「アントマン」に登場した再婚相手の夫は、主人公と対立関係にはあるものの超ナイスガイで、妻や娘との関係も良好。といって娘が実父のスコットを嫌う訳でもなく、娘は2人のパパを2人ともちゃんと好きなのである。
スコットも、娘との関係を修復したいとは願っても元妻に復縁を迫るようなことは一切ないし、元妻もスコットがヒーローであることを知って揺れ動いたりはしない。二人の関係は完全に終わっていて、でも、父であり母であり続けることは可能なのだ。
これは少なくともビックバジェットの娯楽大作の中においては、かなり画期的でオトナな家族像だった。

続編となる本作でもその良さは変わらない。ややネタバレになるかも知れないけど、あれほど「人間」として描かれた母親は、恐らくMCU史上では初だと思う。ワスプのスーツを作ったのがピムではなく彼女自身という設定も非常に良い。
ちなみに今回はヴィランも女性。作品の規模がいろいろなので簡単には比較できないけど、MCUの中では女性比率もかなり高い作品だと思う。
そういう意味でも、お子さんに気兼ねなく見せられるファミリームービーだと言えるだろう。

MCU作品の中で断トツ面白いか?と言われると口ごもる部分はあるけど(笑)、ちっちゃい世界のちっちゃい関係を大切にするこのシリーズが、私はやっぱり愛しくて仕方ない。

雑味ありすぎの珍作「検察側の罪人」ネタバレなし

kensatsugawa-movie.jp


【あらすじ】
東京地検のエリート検事・最上(キムタク)は、大学時代に知り合いの少女が殺害された事件を引きすりながら暮らしていた。ある日、担当することになった夫婦殺害事件の被疑者の中に、少女殺害事件の重要参考人だった人物・松倉を発見する。
冷静に対処しようとする最上だったが、既に時効となった少女殺害事件の犯行を楽し気に告白する松倉の姿を見て、どうしても罰するべきと確信していく。同じく夫婦殺害事件を担当する新米検事・沖野(ニノ)は、最上を尊敬しながらも、松倉ありきの捜査方針に疑問を抱き始める。
一方、最上の大学時代からの親友である代議士・丹野は収賄容疑をかけられ、身を隠していた。その裏には、政財界にはびこる極右の存在があった。

と、あらすじだけ読めば骨太の社会派ドラマに感じられる。少なくともキムタク主演と聞いて浮かぶイメージよりは踏み込んだ内容だろう。
ところが、これが映画の面白いところで、実際に見てみるとストーリーが頭に入ってこないほど雑味たっぷりの珍作だった。申し訳ないけど所々笑いをこらえるのに必死だったし、一か所は声を出して笑ってしまった。

f:id:chiki_sasa:20180829211816j:plain


まず一番の雑味は、不必要に突飛なディテールの数々。
何度か出てくる外食シーンが超風変わりな料理ばかりでそっちの方が気になるし、意を決して尋ねた弁護士の事務所が倉庫みたいなガランとしたコンクリート打ちっぱなしだし、そこの一角に家具やSMグッズを置いて仕事してるし、弁護士がアロハシャツだし、弁護士の妻がリーゼントだし、キムタクが帰宅すると妻が二胡を弾いてるし、ある人の葬儀なんてもう何の宗教の何だよ!??? 笑わせようとしてんのか!!!
極めつけは本作唯一のラブシーン。コトを終え、わりと深刻な過去のエピソードを告白する場面なのに、48手のどれのどの段階!??って感じの不思議すぎる体位でずーっと話しているのでとにかく内容が入ってこない。ここだけは我慢できず笑ってしまった。真剣に見てた周りのお客さんごめんなさい。

もう一つは政治批判と戦争批判の要素。
丹野が語る「 政財界には巨大な極右グループがあり、日本を再び戦争へ導こうとしている」みたいな話は非常にタイムリーな社会風刺で、そういう要素を入れること自体は評価できる。ご丁寧にアパを思わせるホテルまで出てくるし。
ただ、これらは全部セリフでしか表現されない上、めっちゃ早口なので半分も聞き取れないし、常に丹野が一方的に話すのでリアリティを感じられない。というか、この人大丈夫かなって感じに思えてくる。
もう一つの戦争批判に至ってはもっと不自然で、なんかキムタクの祖父がインパール作戦に参加した人で? チンピラ松重豊の祖父もそこで一緒になった過去があるだかなんだかで?? とりあえずどういう設定かすらよくわかんないんだよ!
この二つがあまりにも本筋の事件と無関係だしストーリーから浮きまくってるので、気になって調べたら、やっぱね、これ、映画化するにあたって監督が追加した要素だそうです。まあ、でしょうね…。全然絡み合ってないもんね…。

もしかしたら、極右の暗躍もインパール作戦も冤罪捏造も、国家権力の暴走という意味で共通した問題だから繋げて描けると思ったのかも知れない。
いやでもさ、キムタクの冤罪捏造は、国家権力の暴走じゃないじゃん。
彼は検察官の立場を利用して司法に私刑をやらせようとしてるわけで、要するにビジランテ。冤罪捏造というガワは同じでも、検察・警察が組織ぐるみで冤罪を作り上げてしまうのとは全然別の話ですよ。
私刑を目指すキムタクが検察官の立場を利用し、法の原則を守ろうとするニノがそれ故に検察官の立場を脅かされるという逆転構造が面白いんじゃないの?
とにかく似ているようで実は根本的に違うものを無理やり繋ごうとしてるから、ラブホの前で見張り役をしてるヤクザたちが「憲法を改正して軍事力を持つか否か」を雑談で話すという珍シーンが生まれる始末。
いや…うん。この時代に反戦メッセージ、大切だとは思うけど…。珍作度が増す結果にしかなってないよね…。

あとは全体的に演出が大仰で、ニノがだんだん藤原竜也に見えてくると思ったら、最後の最後で藤原竜也お決まりのアレと全く同じことをしててここも笑ってしまった。とにかくカット割ってカメラ動かせば緊迫感が出るでしょ~みたいなカメラワークも感心しなかったし。
ただね、私、曲がった評価なのは分かった上で言うけど、この作品がこういう微笑ましい珍作で良かったなと思ってる。
だってこの作品の事件部分で語られることって、要するに「例え極悪人でも、無実なら無罪にすべきか?」ってことでしょ。そんなもん考えるまでもなく無罪に決まっとるわボケ!
これを、答えの出ない難しい問題ですよ~ってドヤ顔でやられたら、不快になってたと思う。まあ、監督はドヤ顔のつもりかも知れないけど、そう見せることに成功しなくて良かったというか。別に皮肉じゃなくてそう思う。だって私、お陰様でこの珍作映画、わりと好きだもん。

全部、ご先祖様のおかげ!?「未来のミライ」ネタバレ感想

mirai-no-mirai.jp
なんとなく漏れ聞こえる評判の数々から、細田作品をきちんと見ることは生涯ないだろうと思っていたのだけど、何の因果か鑑賞の機会に恵まれて見てきた。これから書くことは大変批判的な内容なので、ファンの方はどうかお目を汚さず、自分の中の大切な「未来のミライ」を守って頂きたい。

ちなみに、TVでやってた「サマーウォーズ」を所々チラ見、くらいがこれまでの私の細田作品鑑賞歴である。


f:id:chiki_sasa:20180828154616p:plain


両親の愛情を独り占めしていた4歳児の主人公くんちゃんは、妹・未来の誕生によって両親の愛情を奪われたと感じ、激しい嫉妬心からことあるごとに幼い妹をいじめてしまう。
そんなくんちゃんの元に、人間の姿になったペットや、未来の妹が現れ、過去や未来へタイムスリップする中で成長し妹を受け入れるというのが基本ストーリー。
自転車に乗れるようになるとか妹の存在を受け入れるとか、それくらいの話は現実の日常の中で解決してもらえます? ほとんどのお宅はそうしてるんで…と思わなくはないが、それは作品の根本を否定することになるからとりあえず譲るとして、この作品で描かれる価値観の数々は私にとってあまりにも承服しがたいものだった。ビックリした。ぶっ飛んだ。

諸々の不思議な点、ツッコミどころは山ほどあるのだけど、特に「無いわ!!!」と思った部分だけを紹介する。

全体に5つのエピソードに分かれている中で、未来のミライちゃん、つまり成長した姿の妹が現れる2つ目のエピソード。
未来の世界から子孫なり成長した家族なりがやってくる場合、このままでは両親が結婚せず自分が消えてしまうとか、誰かが事故や事件で死んでしまうとか、世界が滅びるとか、超ド級のピンチを回避するためにやって来るのが通常だ。
ところがこの未来ちゃん、何のためにやってくると思います?
お父さんがひな人形の片づけを忘れているから、このままじゃ婚期が遅れてしまうと焦ってやってくるんですよ。
‥‥‥は?
いや、だから、お父さんがひな人形の片づけを忘れていて、このままじゃ婚期が遅れてしまうと焦ってやってくるんですよ。
‥‥‥‥‥ハイ??
ええ、そうなんです。酷いんです。しかも、少なくともこのエピソードの未来のミライちゃんは限りなく生霊に近いというか、乳児である現実のミライちゃんと同一の存在と思える描き方なので、乳児が婚期の遅れに超焦って生霊を飛ばしたように見える。
その乳児の生霊が、不機嫌な兄を必死であやしてケアしながら協力を取り付け、ひな人形を片付ける大スペクタクルを始めるわけ。婚期が遅れるからって。乳児が。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ハイ?
細田作品がかなりセクシズム強めという噂は聞いてたし、今回の主人公を男児に設定したのも「同じ4歳でも女児はもうかなり大人だから」とインタビューで語っていたそうなので、セクシズムは覚悟の上で観たんです。
でもこのエクストリーム展開、想像のはるか上を行く酷さでした。呆気にとられました。西暦何年の映画なんだこれは。夫が家事育児を担う設定だろうが、こんなトンデモセクシズム発動されたらお釣りをいくらもらっても足りないよ。
ちなみに未来のミライが制服姿である理由もまったく説明されない。必然性もない。もしかして細田守って人は、10代の女は制服が皮膚の一部だとでも思ってるんだろうか。


話は進んで、4つ目のエピソード。
補助輪を外した自転車に乗れず苛立ったくんちゃんは、過去の世界で若き日の曽祖父に出会う。祖父じゃなくて、最近亡くなったらしい曽祖父というのがポイント。
前半のシーンで、曽祖父は戦時中に負傷して足が悪かったと明かされており、歩き方を見るだけで曽祖父だと分かる作りになっている。
曾祖父のバイクに乗せてもらい、「乗り物のコツはみんな同じさ。バイクでも車でも飛行機でも、一つ乗れたらみんな乗れる。」みたいな大変納得しずらい話を福山雅治ボイスで聞かされるくんちゃん。
この作品に出てくる過去の世界は、キーパーソンになる親族一名以外には人物が出てこない(出ても影と音声だけ)作りになっていて、現実の過去ではなく概念上の過去という感じ。だから、くんちゃんが曾祖父と過ごすシーン全体が、なんか幽霊と話してるみたいに感じられてくる。そして私の頭には、自然に「英霊」という言葉が浮かんだわけです。
ま、でもこれはね、私の過剰に左翼的な思想がそう感じさせているだけの、偏った左翼ビジョンだろうとは思うんですが。

現実世界に戻ったくんちゃんは再び自転車に挑戦。曽祖父のアドバイスを思い出して、ついに補助輪なしで乗れるようになる。
この展開、すげえ気持ち悪いなと私は思いました。何故ならこのエピソードの序盤、自転車に乗れないくんちゃんを見かけた小学生くらいの少年たちが、乗り方を教えようと声をかけてくれるのです。ここを見て私は、ああなるほど、これで家族という補助輪を外し、外の世界の他者によって成長するんだなと思ったわけ。
ところが、少年たちの励ましは全くの徒労に終わり、ご先祖様のありがたいお言葉でくんちゃんは成長してしまう。これほど血縁者との関係だけに閉じた成長モノは珍しいんじゃないだろうか。
これまでに描かれた3つのエピソードでかなり異常な経験をしてるにも拘らず、くんちゃんは一切変化していない。初めて具体的に変わるきっかけが、戦争を生きた亡き曾祖父の教え。しかも、この曽祖父は特攻隊員として出撃しながら奇跡的に生き延びた人物であることが明かされる。
ここで再び、私の頭には「英霊」という言葉が浮かんでしまった。戦争体験者に影響を受けて成長すること自体は勿論よい。でも、本作に出てくる曾祖父は映画が始まった時点ですでに故人で、生きた人というよりもイメージ映像みたいとでも言えばいいのか、なにか象徴的なアイコンとして扱われているような印象なのだ。


話は進んで、くんちゃんが未来の東京駅へとタイムワープする最終エピソード。
助けを求めて遺失物係にたどり着いたくんちゃんは、受付ロボットに迷子だと訴える。ここでロボが「では、失くしたものは自分自身というわけですね?」だの、「自分で自分を証明する必要がります」だの、テーマそのものみたいな超恥ずかしい台詞を連発するのは許すとしよう。
どうやらこの世界では、自分で自分を証明できないと「ひとりぼっちの国」なる恐ろしい場所へ連れていかれ、自分を証明するためには家族の名前を申告しなければいけないらしい。
ところが、くんちゃんは幼さゆえに(?)父母の名前を言うことができない。
このシチュエーションが昨年公開されたディズニー映画「リメンバー・ミー」に似ていると感じる人は多いんじゃないだろうか。ただ、"家族や祖先の存在だけが自分を規定する"という価値感に対して「リメンバー・ミー」がそれなりに距離を取っていたのに比べ、この作品では完全にゼロ距離で肯定されてしまう。

両親の名前を言えなかったために自分を証明できず、「ひとりぼっちの国」へ連れて行かれそうになるくんちゃん。自分を引き込もうとするホラー列車から必至で逃げる中、妹の未来(乳児)が同じく電車に引き込まれそうになっているのを発見する。最後の瀬戸際で、あなたは誰かとの問いにくんちゃんは叫ぶ。「くんちゃんは‥‥未来ちゃんのお兄ちゃん!!!!」
すると遺失物係は「未来ちゃんのお兄ちゃん」を彼の存在証明として認め、解放するのだ。
くんちゃんはまだわずか4歳だ。自分が何者かを考えたことも無い幼児に、家族役割こそがお前のアイデンティティだ、それを失えば恐ろしいところへ連れていかれるぞと教え込む。あまりにもグロテスクな展開ではないか。
私がドン引きしていると、解放されたくんちゃんの元に再びセーラー服姿の未来が舞い降りる。で、なんかカラフルな家系図みたいのが張り巡らされた超空間にくんちゃんを連れて行き、私たちの親や祖先が少しでも違う行動を取っていれば私たちは生まれなかった、過去の些細なことが積み重なって、奇跡的に私たちは生まれたのだ、みたいな大演説をする。
‥‥なにこの濃度100%の血縁主義。
しかも、過去のエピソードが最も細やかに描かれ、かつ決定的に生命にかかわる経験をしているのは曾祖父だけだから、どうしたって、戦争を戦った人のおかげで今の私たちがある的な、やっぱり英霊という言葉が浮かばざるを得ないものを感じてしまう。

わずか4歳にして、先祖代々血が受け継がれてきたことの大切さを知ったくんちゃんは、ついに「兄」という家族役割を受け入れ、自分の食べていたバナナを妹にわけ与える。
噂には聞いてたけど、今時こんなバリバリの血縁主義、旧態依然とした家族役割、性役割を賛美しておきながら、未来に向けた新しい家族の話だと公言してる監督…激ヤバじゃない…?
 

こまけーこたいいんだよ! 「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」ネタバレあり感想

www.mammamiamovie.jp

 

2008年に公開された大ヒットミュージカル映画マンマ・ミーア!」の10年ぶりとなる続編。前作でメリル・ストリープが演じた主人公ドナの若き日を描く前日談を中心とし、一方では母の夢を受け継いだソフィがホテルの改装披露パーティーに奮闘する姿を描く。

f:id:chiki_sasa:20180826003615j:plain


私、恋愛映画っちゅうもんが苦手なので本シリーズも基本苦手ジャンルなんですが、前作はとにかくキャスト陣が魅力的で、イケメン中年俳優のサービスシーンたっぷりだし、女三人の友情は熱いし、エンドロールのサービスではヒャッフー!となりました。特にやっぱり、コリン・ファースの殺人的な色気とかわいさね。

ところが今回は前日談ということで、前作のキャストは出演シーンが非常に少ない。前日談と現在パートが7:3か8:2くらいの割合だと思います。しかもメリル・ストリープは死んでる設定だし。
で、前日談って基本的に結果を知ってる話を見せられるわけで、しかも3人の男と出会って恋に落ちてメイクラブして破局という展開を足早に3回見せられることになるので、さすがに前日談の恋愛パートはかなり退屈でした。ゆるさも含めて魅力の作品とはいえ、もうちょっと工夫しようが無かったかな。途中から「いいから早くコリン・ファースを出せ!」と思ってしまった。
若き日のドナを演じるリリー・ジェームズは明るく若い生命を体現してて、なんかもう全身から命が溢れている感じで素晴らしいのに、勿体ないなぁ。
これなら恋愛パートは大幅に端折って、ダイナモスの話を中心にした方が良かったんじゃないだろうか。というのも、前日談でも女の友情部分はキャラも立っててなかなか魅力的なんだよね。そこを中心した話ならもっと楽しかったかも。

それでもこの映画、観る価値は十分あると思う。若き日のダイナモスは役者の引き写しぶりもあってなかなか楽しく、割合的にはわずかな現代パートがやっぱりかわいくてキャーッ!とさせてくれる。
現代パートに戻ってからの終盤は3パパが魅力全開だし、年を重ねたダイナモスは変わらず自由で仲良しだし、コリン・ファースは無意味に濡れ場(物理)を見せてくれるし、気付けばこちらもニコニコ顔ですよ。
クライマックスはシェールがドナの母親役で出演してるんだけど、彼女の歌唱力と歌の持つ迫力が桁違いに異質なので(そりゃそうだよw)、なんか「あれ? 違う映画始まった?」くらいの違和感あるんだけど、まあもう花火も上がってるし祭りだ祭り!ヒャーイ!!!歌って踊れー!って感じで、こまけーこたいいんだよ!なトリップ状態。
いろいろ緩みまくってるけど抜群の陽気さを讃えたサマーバケーションな感じがこの映画の魅力だろうから、そういう意味では成功してるんじゃないかな。

あと、前作を超々々々々ハッピーに終わらせたエンドロールのサービスは、今回ぐぐんとパワーアップしてて、もうね、ここだけでペイしますよ。ここだけ1億回見たいよ。
全体としてはツッコミどころ満載ゆるゆる映画だけど、エンドロールを見終えた頃にはニッコニコ。そんなサマーバケーション映画でした。

鑑賞後に読んでね 「カメラを止めるな!」完全ネタバレ感想

kametome.net


わずか2館の上映から始まり、話題が話題を呼んで全国的ヒットにまで登り詰めた本作。
よく言われてるように事前情報を出来るだけ入れない方がより楽しめる作品なので、ネタバレ全開で書くこのレビューはぜひ 鑑 賞  後 に 読 ん で 頂 き た い 。
私は2回見て2回とも、というか2回目の方がより楽しめたくらいだし、ネタバレしたらつまらないかといえばそんなことは無いんだけど、まあ、とにかくまずは黙って劇場へ行ってくれ。悪いようにはしないから。

 

f:id:chiki_sasa:20180824121806j:plain

 

 

 


では、ここからネタバレあり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作は三部構成になっていて、まず第一部は37分ワンカットのゾンビ映画
この長回しパートの面白さは、相米慎二園子温みたいに役者を追い込んで演技以上のものを引き出すとか、「ラ・ラ・ランド」のアバンみたいに計算しつくされた快感を楽しませるものとは違い、非常に演劇的な、もっと言えば小劇場的な楽しさだと思った。
役者が早着替えして一瞬で別の人物になるとか、あっという間に舞台装置が入れ替わって場面転換するとか、目の前でトリックが実現していく楽しさ。それも、ちょっと無理やり感のある力業も含めたスリルと緊張感であり愛らしさだ。
そういう意味で、小劇場演劇が(原作か原案かはともかく)元になっているのは非常にうなずける。
ただ、映像作品は編集や加工によってほぼ何でも出来てしまうので、普通に撮っただけではそういう面白さは発生しない。そこで、ワンカットという厳しい制約を設け、かつ映像トリックを仕込みやすいゾンビ映画に設定している。
元の舞台はゾンビものではないらしいので、舞台から映像に置き換えるにあたって、面白さの肝を踏まえて大胆に設定を改変したことがまずは勝因の一つだと思う。

 

 

ここから本当にネタバレですよー

 

 


このパートで実はいろいろと伏線が張られていくのだけど、その塩梅がうまい。
例えば前半、いきなり趣味の話を始める部分や、お互いに怪我がないか延々と確認するシーン。ここは作品的な失敗(間延び)と思える一方で、本当にパニック状態だと人間はこんな感じかもというリアリティ演出にも取れ、フリであることはほとんど気づかせない。
残念ながらこの第一部を見終えないうちに席を立つ人が稀にいるらしいけど、それは逆に言えば、伏線を伏線と感じさせない出来になっている証拠でもある。
ただ、ちりばめられた伏線の数々は、伏線と気づかせないながらも引っ掛かりとして残るようにはなっていて、引っ掛かりが蓄積していくとともに大胆な伏線になって行くので、後半になる頃には、あれ?と思わせ、終盤「こんなところに斧が!」という完全にわざとらしいセリフの辺りで、これ…めっちゃ時間と手間かかってるけど‥‥もう30分以上やってるけど‥‥でも、これ…前フリだよね‥‥?と徐々に予感させる仕掛けになっている。


という訳で、ゾンビ映画のエンドロールが流れ終わった後、時系列は1か月間前に飛び、映像はB級フィルム調からスタンダードなデジタル映像に変わり、37分に及ぶワンカットゾンビ映画が劇中劇であったことが明かされる。
この驚きを体験してほしいために、鑑賞したファンの多くが「ネタバレ厳禁!」と言ってるわけだ。
第二部に当たるこのパートは、第一部の劇中劇が撮影されるまでの経緯説明と、キャラクターの紹介がなされる説明パート。
ここが下手くそだと完全に中だるみしてつまらなくなってしまうと思うけど、とにかく効率よくポンポン話が進んで行くので、そのテンポ感だけで楽しく見ていられる。話運びが早いからといって分かりにくい部分はなく、キャラクターそれぞれの性質も的確かつタイトに表現されている。
とはいえ派手なことは起こらないので、緊張感あふれる第一部と、捧腹絶倒な第三部に挟まれた良い小休止にもなっている。
新人の登竜門的な企画から生まれた作品には珍しく、粗削りながら斬新な感性!とかではなく、高い技術力、成熟した娯楽性がこの作品の大きな魅力で、この辺のストーリテリング能力の高さがそれを証明している。だからこそ大ヒットにも繋がったのだろう。


そして、第一部で流れた劇中劇の撮影当日。
捧腹絶倒、爆笑の種明かしパートである第三部だ。
ここがなんであまりにも面白いのか、あんなに応援したくなるのか、愛しくなっちゃうのかを説明するには、非常に似た仕掛けの作品である「ラヂオの時間」と比較すると分かり易いと思う。
ラヂオの時間」は三谷幸喜監督が自らの舞台を映画化したもので、ラジオドラマの生放送中に起きるドタバタをいかに切り抜けていくかが見どころのコメディだ。それなりに面白い作品ではあるものの、申し訳ないけど「カメラを止めるな!」の方が二三枚上手である。Netflixで見返してより確信を深めてしまった。
大きな違いの一つは、カメ止めは完成作品を前半たっぷり使って見せられているので、成功するかしないか!?のハラハラではなく、明かされる舞台裏のとんでもなさに爆笑する構造になっていて、種明かしの質量が圧倒的に多い。

あともう一つ、こっちの方が実は大きいと思うけど、制作中に起きるトラブルの原因がまったく違うのだ。
ラヂオの時間」で起きるトラブルの数々は、主演女優の私情からくるワガママやキャストの不仲など、人間の意思に重きが置かれている。だからトラブルが重なるにつれて、お前ら真面目に仕事する気あるのか?と登場人物を応援できなくなってきてしまうし、結局は自分たちで起こした問題を自分たちで解決してるだけで、それを美談みたいに言われてもなあ‥‥って気がしてしまう。
一方「カメラを止めるな!」で起こるトラブルは、交通事故、体調不良、依存症の症状、慌ただしい中での物理的なアクシデントと、誰も悪くないものばかり。
キャストと監督の対立も、主演女優は(少なくとも自称)事務所都合が理由だし、男優は真剣に考えればこその疑問や指摘。「ラヂオの時間」に出てくる、元カレを奪った女と同じ名前だから~みたいな100%ワガママな理由とは全然違う。しかも劇中劇のしょっぱなでやりすぎなくらい監督がやり返してしまうので、キャストの未熟さは完全に解消されてから種明かしが始まる。

種明かしが始まるまでに丁寧に下地を作ってあるから、登場人物たちの行動に疑問をもつことなく、一生懸命なプロたちがとんでもなく無茶な状況をどうやって乗り越えるか!?に集中できるし、登場人物を応援することに集中できる。
トラブルが起きれば起きるほど、(完成作品を知っているにも拘らず)がんばれ!がんばれー!!!!!と夢中で応援する気持ちがわいてくる。みんなの一生懸命に巻き込まれていく。この熱量が「ラヂオの時間」とは圧倒的に違うと感じる。
一応悪役っぽいイケメンプロデューサーも、立場が違うから理不尽なことを言っているだけで、仕事を貫徹しようとするプロであることには違いない。だから最後、こだわりのラストカットを撮るためにみんなで人間ピラミッドをやる時、彼はどこにいるか?
当たり前のように、当たり前のこととして
歯を食いしばってピラミッドに参加してんだよおおおお!!!!!!!
みんな一生懸命、映画を撮ってんだよおおおお!!!!
ウォォォオオオオンンン!!!!!(号泣)
もうこのクライマックスシーンは大いに泣かされた。

 見事な種明かしの数々が終わり、爆笑と快感と熱い気持ちに包まれる中、流れ始める本当のエンドロール。そこでまた、この映画を、「カメラを止めるな!」を撮ったスタッフ/キャストの懸命な姿が映し出される。
こいつら‥‥こいつら本当に‥‥
一生懸命、映画を撮ってんだよおおおお!!!!!!!
お茶飲みながら、転びながら‥‥
一生懸命、映画を撮ってんだよおおおお!!!!!!!
ウォォォオオオオンンン!!!!!(号泣)(二回目)

ビビッて笑って泣いて感動して、邦画でもこんなに文句なく面白い娯楽エンタテイメント、出来るんじゃん! 笑って泣けるハートフルコメディ、出来るんじゃん!!
ありがとう、カメ止め! ありがとう!!!!!


女たちの自由と未来! 「オーシャンズ8」ネタバレあり

wwws.warnerbros.co.jp
私は30代半ばまでイケスカナイ映画好きだったので、こういうザ・娯楽作は興味を持てなくて、これが初オーシャンズシリーズです。ごめんちょ。
というわけで前作までの経緯とか全く知らない状態で観ましたが、十分に楽しめる内容でした。知ってたらもっと楽しめたんだろうとは思うけど、ここまで女たちのサイコーな世界を見せられちゃうと、男だらけの前作を後追いで観る気にはならないのが正直なところ。

f:id:chiki_sasa:20180815161103j:plain


個性豊かな女たちががんばって高価な宝石を盗む本作。重要なのはストーリーよりも、その「個性豊かな女たち」が、本当に個性豊かで、それぞれに多様で、とびきり魅力的で、やり取りを見てるだでフォー!!!!!!ってテンションMAXにしてくれること。
主人公デビーはメンバー選びについて「女は無視されてる(から目立たず犯行できる)」と語る。注意深く見てみると、本作に出てくる美術館の警備員、街の警察官、カルティエの鑑定士とガード。つまり"重要なものを守る役"は、もれなく全員、男が配役されている。
これは現実のアメリカ社会を考えると不自然なバランスだと思う。つまり意図的に男社会をカリカチュアライズして見せている。
信頼に値しないものとして「無視されている」女たちが、とてつもなく輝き、まんまと世間を騙して見せる様子は胸をスカッとさせてくれる。


(ここからネタバレ)

 


キャラクター描写とディティール以外で感心したのは終盤の展開。
まず、それまでバカセレブとして描写されてちょっとかわいそうだったダフネ(アン・ハサウェイ)が8人目のオーシャンズとして加わる点。
優秀でカッコイイ女たちが主役の物語において、「甘やかされたビッチ」というのはシスターフッドからさえ敵として描かれる傾向があり、この展開が来るまではそういう流れかなぁ‥‥ただ利用してるだけで嫌だな…と感じただけに、最高にゴキゲンな展開だった。
ちなみに、女性を描く映画で、ある種のステレオタイプ化された女性が悪役になってしまう問題についてはこの記事が詳しい。

wezz-y.com

 

ダフネの種明かしが終わると、今度は老女たちが登場し、実に楽しみながら世間を騙して大金をせしめる。たぶん彼女たちにも少なくない分け前を手にしただろう。
このように、作戦に直接かかわっていない女性たちにも視線が向けられているのが大変気持ちよいと感じた。

なんやかや終わってエンドロールの後日談。そこで描かれるオーシャンズそれぞれの金の使い方は、すなわち「女たちが叶え得る未来」だ。このひとつひとつが全くステレオタイプ的ではなく、これまた多様で、自営業からユーチューバーまでそれぞれをバカにせず、幸福な未来として描いている。
この辺で私は号泣してしまった。その多種多様な女のライフビジョン自体もそうなんだけど、デビーが犯行直前に言う「この世のすべての、犯罪を夢見る8才の少女たちのためにやりましょう」という言葉が思い起こされたからだ。
すべてを成し遂げたデビーは、何に散在するでもなく、兄のお墓を前に「出来ることを見せたかった」と静かに言う。
これは勿論、物語的には亡くした兄へ向けた言葉だけど、私には世界中の「8歳の女の子」たちに向けているように思えた。
女は無視されてる。バカにされてる。でも、何だってできるんだよ、と。それを子どもたちに見せた映画なんじゃないだろうか。

いろいろ投げっぱなし 「インクレディブル・ファミリー」ネタバレあり

www.disney.co.jp


マッチョなスーパーヒーローが家事育児! 一方、同じくスパーヒーローの妻は世界を救うために大活躍?!みたいな予告が面白そうで期待していた作品。‥‥なんだけど、先に結論を言ってしまうと、かなりガッカリだった。
前作未見なのでそちらも観てから感想を書こうと思ってたけど(批判的な内容なので尚更)、まあズルズル先延ばしせず覚えてるうちに書きますわ。

 

f:id:chiki_sasa:20180815151610j:plain


ガッカリとはいっても、つまらない、退屈、見るに堪えないとかでは全然ない。子ども向けエンタテイメントとして標準的な楽しさは十分に詰まってると思うし、技術的にはそりゃディズニー/ピクサーだもん、高いですよ。
ガッカリなのは主に、というかほぼ全部、お話の部分ですね。

まず、ヒーロー活動が非合法とされている世界で、主人公ファミリーが強盗相手に大捕り物を繰り広げる冒頭のシークエンス。アクションシーンとしては魅力たっぷりなんだけど、警察の言う「お前らが出て来なければもっと被害は少なかった」的な台詞が間違っているとあまり思えない。
だって、強盗だよ? 金さえ盗めば静かに逃走しただろうに、大捕り物やる中で街は破壊されるし交通事故の被害もハンパない。その上金は盗まれ犯人には逃げられで収穫もゼロ。今度こそはとその犯人を追いかける話でもないから、いや、まあ、警察の言うことが正しいよね…。

そんなある日、スーパーヒーローの大ファンである謎の大富豪から、ヒーローを合法化するロビー活動に協力してほしいと誘いが来る。ここで指名されたのが、典型的マッチョヒーローなMr.インクレディブルことボブではなく、イラスティガールこと妻のヘレン。
なんで俺じゃないんだよ!?と憤るボブ、夫に家事育児を任せていいか心配なヘレン、家事育児くらいワケないとなめてるボブ。
この辺の設定が出そろったところで、あ―なるほど、これはあれ、ヒーローが成長する系の話ね、と思ったわけですよ。ヒーロー=派手な物語に固執するボブが、家事育児=地味な物語を経験することで、功名心や力よりも大事なことがあると気づく、的なね。ジェンダー論としても的確でしょう。

f:id:chiki_sasa:20180815151805p:plain


そうこうする内、後半の冒頭辺りでヴィランの主張が明らかになる。
いわく、スーパーヒーローがいると人々はヒーローに頼り切ってしまい、自分の頭で考えなくなる。だからヒーローは社会を脅かす悪なのだ、と。
これってさ、昨今の世界的な政治状況、社会状況からすると、ものっすごく説得力のある現実的な問題提起じゃない?
しかも後にこのヴィランは、ヒーローたちを洗脳することで主人公一家を倒そうとするんですよ。これもさ、英雄に頼り切ってしまうと、いざ英雄が暴走した時とんでもないことになるという、これまた今日的かつ社会風刺的な問題提起じゃないですか。

だからさ~。期待するじゃんよ。
ほほー!これを覆すのは本質的なヒーロー論にまで踏み込むことですよ~!?やるねやるね!ってさ、思うじゃんよ。
で、このヴィランの論理を、前半で提示された設定と絡めて覆そうと思ったら
1)イラスティガールの活躍にヒーロー熱が高揚する市民たち。しかしヒーローが危機に追い込まれ、市民自身が考え行動することの大切さに気づく。
2)ヒーロー活動しか頭にないボブ。しかし、家事育児を経験することで名もなき市民こそ偉大であることに気づく。
3)ヒーローと市民がリスペクトし合い、助け合い、ついに物理的にも論理的にもヴィランに勝利するのであった!
と、まあ大体こんなとこでしょ。こんなとこじゃない?

ところが。
ぜーんぶ、ほったらかしですよ。

まずクライマックスの闘いについて、市民は存在を知りもしない。ほんと全編通して「フツーの人」が徹底的にモブなんだよね…。
じゃあヒーロー側が行動なり言葉なりでヴィランの論理を覆すかといえばそれも無くて、なんだろ、こう、あれ?さっきこの話してたの忘れちゃった?みたいな感じ。
他にも興味深いモチーフがいくつも出て来てはほったらかされる印象で、見終わると「で‥‥なんの話?」「やっぱお前らが出て来なければ平和だったよね?」というのが率直な感想。
くわえてスーパーパワーや社会的地位を持たない人たちの描写が皆無で、エリート主義的な臭いすら感じてしまった。インクレディブルじゃない人たちにも優しいヒーローものが私は見たいなぁ。