ディーセント・ワーク

田舎に暮らすノンバイナリーなフェミニスト。映画好き。語学を勉強する人。ね子だくさん。

IMAXのない町で映画を見ながら暮らすこと

 これって世に聞くIMAXなら、もっとイイ感じに見えるのかなぁ。田舎のシネコンの小さなスクリーンで『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』の地底シーンを見ながら、ふとそんな雑念が頭をよぎる。東京へ映画を見に行くことが叶わなくなって、思えばもう3年が経つ。
 あまり"発展"していない地方に住む私にとって、映画を見るということは元々、都会地への嫉妬と無縁でいられない行為だ。ミニシアターしか上映しないような作品も、極音・爆音上映も、コスプレした人がいる賑やかな応援上映も、私が大好きな文化の、私が触れることの難しい一部である。
 年に何度か東京へ"遠征"することで多少なりともギャップを埋めていた(特にミニシアター系の作品をカバーしていた)生活がままならなくなって、疎外感とでもいうべき感情に改めて向かい合うことが増えた。私の愛する文化は、しかし田舎で暮らす私にあまり親切にしてくれない。上映方式が発展する中でその傾向は強くなっているようにも感じられる。きっと、多くの聴こえない・聴こえにくい映画好き、見えない・見えにくい映画好きは、もっともっと大きな疎外感をずっと感じ続けているだろうとも想像する。

 映画を見るってどういうことなんだろうか。例えばファスト映画のように情報処理として映画を見ることは、善悪以前に私にとっては何の楽しさもない意味不明な行為だ。そんなことならいっそ見ないほうがましだとすら思う。だからって絶対にIMAX極音環境で見たい!とも別に思わない。
 映画の"原風景"みたいなものをイメージするとき、私にとってそれは、よくわからない乾いた荒野に安っぽいスクリーンとスピーカーが置かれ、上映の質もくそもない場所に、それでも映画を見ようと地元の人々が集まっている光景だ。乾いた生活の中の、水道水か井戸水か。どうやら私にって映画というのはそういうものであるらしい。
 『RRR』の上映を早々に終えてしまった田舎町で、今日も私は生きている。